ものの見事に、はてな界に存在するウチの本家はその世界じゃあまり受け入れられていない。
それは被ブックマーク数なんかをみれば、一目瞭然なんですよね。
それはそれでかまわないのですが、ウチの場合厄介なのが。
その「はてな界」じゃネタと思われない話が、
表ではもっと大きな影響力を持っているという事実でしょうか。
こういうのを言うと、みている人はドキッとするだろうが、実際どういうアクセス方法を用いたかというのは、ある程度はコチラで知覚できるわけですよ。(もちろん、個人情報等は分からない、という前提で。)
なにが言いたいかというと、ウチのサイトはRSSでフィードする人のほうが圧倒的に多いということ。
RSSには昨年くらいから対応したと思うけど、個別記事化しているのも、RSSツールでみる環境に適した「やり方」なわけです。特にウチの記事スタイルのように、羅列でない言及型では1記事へのコメントが多くなる傾向があるので、RSSで確認するのに適さない形になってしまう。
昨日本家のほうで、昨日の大きなニュースについてコメントさせてもらった。
私のスタンスはあそこで書いたとおり。
それが正しいとか正しくない、なんてのは稚拙で節操で無意味な議論。
「親子丼」が好きな人に「カツ丼」すすめても、最終的にどっちを選ぶか?なんて誰が予想できます。出来るわけないですよね。とりわけマスコミ等を通じて、大きくクローズアップされる被害者側の人に「同情」はするけれど、それと私のスタンスは並び立たないわけです。
死刑制度の是非というのは、市民レベルでも大きな注目をされているし、言わずもがなロースクーールという臨床教育の場面でも、大きなウェイトを持つ問題です。
私自身のスタンスは死刑制度の残虐性は認めても、現行法(刑法)上死刑を規定する以上、それを今のままで否定することができないのだから、死刑が撤廃されない限りは、いまのまま死刑制度が存置されるのはやむをえないと考えている。
そのような事情を一切考えずに、純粋に死刑制度の是非を考えても・・・
死刑制度を廃止する理由は、まだ見つかりません。
かいつまんで書けば、
被害者感情という問題が根底にある。
つまり、刑事裁判制度が存在しない場合だとどうだったかを考えると、そのようなときには国家による刑罰は期待することは出来ないのだから、被害者側は加害者側に対して「
私刑」と呼ばれる、いわゆるリンチをすることになるだろう。
これが近代国家の誕生で劇的に変動するわけです。
近代国家というのは、
領域・主権(=行政)・市民(国民)この3つを備えたものと、一般的に理解されています。いわゆる
国家の3要素といいまして、これが近代国家たるゆえんなんです。
このような近代国家が誕生する段階になって、刑法などが法典化され出来上がるわけですがその過程で刑罰については私刑が否定され、国家による刑罰に集約されたワケです。
つまり、簡単に書けば
今も昔も「被害者感情」というのは犯罪がある以上、必ず存在するわけです。なぜかって、加害者がいれば被害者がいるのだから。
なのに、私たち人は前近代の国家から近代国家(さらに現代国家)に変遷する過程で、私刑を否定した。このことは、被害者感情に従った刑罰を加害者に対して、被害者側から手を下すことが出来なくなったことを意味しますよね。
しかし一方で、どのような内容の刑罰が予定されるのか?期待されるのか?
これはもちろん明文の規定をもって法定するのが今の刑法の大前提になりますが、さてさて、被害者側の期待する刑罰と、その規定された刑罰が矛盾した場合はどうなるのだろう?
私が答えを見出せないのはこの疑問なのです。
例をだせば、被害者側は「死刑」を望むのに、被告人に適用できる刑罰の上限は法定により「終身刑」までだ、となったような場合です。この問題は言い換えると、そもそも私刑を否定し国家による刑罰にゆだねたときに、私たちは刑罰の種類についても一切をゆだねたと言えるのか?という問題にもなってくると思います。
最近は被害者保護と叫ばれる風潮が強くて、実際、裁判所の判例でもそれに斟酌するようなモノも時に出てくる。それはそれで一定の評価は出来ますが、はたしてドコまで踏み込むのだろう?それに。
いま日本の置かれる難問ってのはまさにそこだと思うのですよね。
具体的に議論されていないのに、なんで「被害者意識」を重きにみるのだろう?
そこに、メディア媒介等を経由して、大きなトピックとして存在する意義がでてくる。
上で私が見出せない、と書いてるけど、実は答えとして書いたのはあるわけです。
死刑制度の是非については、私が現在在籍するロースクールの入試でも問われたわけですが。
上のように考えて、私が結論として提示したのは
「すくなくとも、矛盾した場合に被害者感情を無視できない以上は、死刑制度を存続させるほかはない。」としました。そうしないと、被害者感情という問題を提示する以上は合理的な結論にはならないんですよ。
なぜかって、被害者感情が望む下限は刑罰の下限とイコールにはなっても上限については死刑を廃止すれば被害者感情の望む上限とは結びつきませんよね。これは不合理じゃないですか。
被害者感情への配慮は、一方で死刑制度については厳しい態度を強い得るものだと、私は理解してます。
だからこそ、この「被害者感情」というのは一種のマジックワードだと思っているんです。
まあ、そもそもの話になりますけど死刑制度の是非について被害者感情という問題から切り込んで書くのは大変難儀です。最近の国際情勢や残虐性を、そもそもの問題として理解するほうが親切なんだろうなー。思考的には、非常にシンプルですし。
ちなみにですが、上で書いた被害者感情の難問はマキシマム(死刑)を想定していますが、ミニマムな場合もカヴァーできるんです。それは被害者感情が「彼は無罪にしてほしい」と考えたような場合に、国家による刑罰ではどう考えるのか?というマニアックな疑問も指摘できるんですよね。
追記:そうそう、本家での該当記事は某ポータルサイトのトップで紹介されてるようです。
おっかしいなー、はてな村じゃ見向きもされんのに・・・・・・・・・・・・・。
私はつくづく、はてな村で村八分最前線じゃぁ~ないのか。PR