考え方には多様性があること、それは否定されない。
社会的に意義のある問題を語るときには、
白黒つけなければって思うことがどうしてもあるよね?
私にもあるんですよ。
マンパワーを基準にして、会社の利益をあげるために「営業行為」をする会社の構成員たちは、その目的にかなう行為をすればいいってだけだ。憲法上保障される営業の自由、さらに関連する法令にもとづいて存分に営業行為をすればいい。
いやぁ-、でも思索の道ってそうはいかないんだよね。
たとえば「殺人は悪いことか?」という問題に、『悪い』としようが『悪くない』としても全然構わない。結果的に、説得力を持って読む人間を納得させればいいだけの話にすぎない。
論文を書いていると、この『悪い』『悪くない』の到達点を意識して書くなかで、
では論点として何が必要になるか?が問題になることに気がついてくる。
要するに、何を入れて論じましょう。それを入れるか入れないかが分岐点になって、それ以外はどうでもいいんだということに、気がつくんだよね。
もちろん読みやすいとか誤字がないことは必要だけど、それは論文を書く前にわかってなきゃ意味がないんだ。イメージがついてきたのが折り返しすぎてからというのが私らしいけど、意識するだけで結構変わる話なんですよね、このへんは。まー、到達点を意識してじゃ何が必要なの?という合理的選択はいろいろなことに参考になると思いますよ。では。
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