限界は、いつも乗り越えた者が感じると。 昔誰かが言っていた。
先達は、いつも自分より多くを知る。 多くを知るとは一種絶対的で、そこに至るには多くの努力を要する。
今の日本人が、なんてえらそうなことはめんどくさいので言わないけど、いまの日本人は昔よりはバカだと思う。 バカかアホかの定義は学んでほしいが、あらゆる局面でみえてくるかと思う。
たとえば、考える力、あるいは絶対的な教養・知識の差として。
努力をしなくなったのが、私は”今”を生み出した根本的なことだと思ってる。
ネットで情報を集める作業、あるいはそれをプロット(出力)して、ブログなりニュースとして発信すること、これらの作業に価値があると、当のやっている人たちが言う。
忘れちゃ、困る。
それは、自分が思っていることだ。 そう、単なる主張だ。
現に私は価値があるか否かといえば、悪いけど『ナイ』といわせてもらう。
価値なんてありません、エラそうな人にはそれがみえていないのですよ。
あらゆる表現は、誰かにみられることで評価を受ける。
その評価には、ポジティブな意見、ネガティブな意見などなど、あらゆる価値付けされた評価がくっつく。
ようは、みる人によってそれぞれの価値が存在する。
であれば、誰かが肯定しても誰かが否定することが考えられるのだから、読者がどう思っていようがそれが価値を生み出すわけでもない。そう、少なくとも表現自体の価値を決めるわけではない。
さあ、困った。
書き手自身としても、また読者(単体)としても、価値を生み出すわけがないことは既に書いた。
であれば、誰が価値を生み出す?
答え。 価値?それがどうした。 そんなの、気にする程度のことでもないんですよ。
なんでって、もともと表現に価値自体が意味をもたないのだから。
あえて書かないけど、どうしてもってことで書けば、価値を生み出すのは私は『集団』だと思う。すくなくとも、社会的な意味においては、だが。
既に書いたが、個人としての価値付けは存在する。しかし、その個人の価値付けが社会に受け入れられるならばともかく、通常そうではない価値付けが価値を持つことはアリエナイ。
わたしは、悲観的じゃないけど、世の中にはムダな価値を生み出している人たちが多いと思っている。
あらゆる価値付けを、一度アナタは疑ってみる目をもつべきだ。
疑いをもっていない人も、一度、『自分の考え方』に疑問を持つべきではないかな。
結果として、疑問を持とうが、持たないが、そのままだろうが、直そうが、世の中には色々な考え方があり、いろいろな媒介による『価値付け』が氾濫している。
正しいことを、見抜ける人間に、私はなってほしいと思う。
あえて、誤解をおそれないで書けば、今の日本人はバカだ。
なぜかって、『考えること』をしないのだから。
ここからは私事。
今日はゼミのグループで先生を囲んでの飲み。
こういう機会で、先生と飲むのは、やっぱり面白い。
あんまり言うとマズいが、春から先生が『えらい人』になるのもあって、それを兼ねてる部分もないわけだが。
本当は悠長に出ている場合じゃないが、たぶんこういう場を大事にしたいと私が思うようになったんだと思います。 自分が求めること、それがスタートさ。
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